2012年11月11日日曜日

地域の食と人の出会いの場ーぱんぱかぱんマルシェ

10月16日(火)。札幌から浦河へ向かい、そのまま「ぱんぱかぱん」での集まりへ。来年から、浦河で長期的なプロジェクトをはじめようとしている浦河出身のインテリアデザイナー姉帯さん。同じ浦河で、パン屋を営みながら「ぱんぱかぱんマルシェ(去年までは「ぱんぱかぱんの手づくり市」という名前)」というイベントを10年間続けてきた以西(いさい)さんからは、きっと学べることがあるに違いない、と「ぱんぱかぱんマルシェ」のこれまでついて伺おうという会に同席させて頂きました。集まったのは、姉帯さんのプロジェクトに共感しているメンバー3人と、協議会のメンバー、石黒さん、村下さんと私。

私と「ぱんぱかぱん」の出会い


はじめての浦河でパンを食べながら眺めた海
 浦河のパン屋さん「ぱんぱかぱん」は、私が今年の8月「うらかわ『食』で地域をつなぐ協議会」の研修生の募集を知って浦河に興味を持ち、とにかく自分の目でどんなまちなのか確かめようと訪れた時に、最初に食べた浦河の「食」でした。お店に入る前に驚いたのは、海に面していること。パン屋さんといえば、なんとなく山あいや、まちの中にあるイメージがあります。しかも「ここで、どうぞ」といわんばかりに、海辺にベンチが置いてあるのです。札幌からのドライブの後で、とにかくお腹が空いていた私は、連れてきてくれた村下さんに頼み、ベンチに座って買ったパンにかじりつきました。1個だけのつもりだったのが、止まらずもう1個。美味しいパン屋さんがないと生きていけない私は「ああ、ここに住めば、パンには困らない」と興奮したことを覚えています。

「ぱんぱかぱんマルシェ」のはじまり


多くの人でにぎわう「ぱんぱかぱんマルシェ」
 2012年9月8日(土)、「ぱんぱかぱん」の隣の空き地で「ぱんぱかぱんマルシェ」というマーケットが開かれました。この「ぱんぱかぱんマルシェ」、前年までは「ぱんぱかぱんの手づくり市」という名前で年1回行われていたそうです。15年前に、現在の場所にお店を移してから、手づくりの雑貨をお店に置いてもらえないか、とまちの人から相談されたことをきっかけに、店内での販売と並行して、年に1回、お店の隣の空き地をつかって、手づくり雑貨とパンを販売する「手づくり市」を開くようになったといいます。

 毎年続けていくうち、以西さんの中では、現状の「手づくり市」に満足はしつつも、いつかは、パンの材料として使わせてもらっている、地元の野菜や乳製品などの生産者の方たちも参加する「マルシェ」にしていきたい、という気持ちがふくらんできたそうです。とはいえ、こだわってものをつくっている生産者の方はみんな忙しい。いつか、声をかけたいと思いつつも、なかなかきっかけがつかめないまま何年かが過ぎていきました。

中学生たちとの出会いと新しい展開


 そして今年のこと。浦河第一中学校のひとりの先生が「ぱんぱかぱん」を訪ねてきました。3年生の生徒たちに、浦河における「地域のつながり」について目を向けさせたいと考えていた沼倉先生は、地元のさまざまな食材をパンの材料にしている「ぱんぱかぱん」に注目することで、いろいろなつながりが見えてくるのではないか、という生徒のアイディアを実現させようと思い、以西さんに総合学習への協力をお願いしたのでした。

 「ぱんぱかぱん」で、以西さんのお話と以西さんがつくるパンに出会った中学生たちの関心は、当然のようにパンにつかわれている素材をつくっている人々にも広がっていき、生産者の方々にインタビューをすることになりました。それを知った以西さんは、ついに待っていた「きっかけ」がやってきた、と生産者の方々に「手づくり市」に出店してくれないか、と相談したのです。生産者の方々は、快く出店に賛同してくれました。地域の中学生たちとの出会いをきっかけに、ついに「手づくり市」が「マルシェ」となったのです。

 さらに、中学生たちと「ぱんぱかぱん」の出会いは、もうひとつの新しい展開を生みました。沼倉先生から、ぜひ中学生たちに「マルシェ」のお手伝いをさせて欲しい、という申し出を頂いたのです。30人近くの中学生たちが、それぞれの出店者のブースで、接客をしたり、子どもたちとおもちゃで遊んだり、カメラマンになったり、大活躍したそうです(その様子が日高報知新聞に掲載されています)。以西さん、生産者のみなさん、そして、手づくりの雑貨やおもちゃのつくり手さんたち。中学生の彼らが、こだわりを持ってものづくりをしている、いきいきとした大人たちに、地元で出会ったことは、彼らが将来、どうやって生きていくか、ということを考える時に、ひとつの重要な経験となることでしょう。また、まちの未来を担っていく子どもたちが、興味や関心を持って、自分たちの営みに触れてくれたことに、力をもらった大人たちも多かったのではないかと想像します。

 ひとつの出会いをきっかけに、まちの多様な人を巻き込むことになっていった「ぱんぱかぱんマルシェ」。今年は、例年以上に多くのお客さんが訪れ、また長い時間をそこで過ごし、楽しんでいったと言います。いつか、もっと豊かな場に、という思いを秘めつつ、10年間この場をつくり続けてきた、以西さんの気持ちに、まちが自然に応えてくれた。私には、そんな風に思えます。

海の見える厨房に立つ以西さん
 「ぱんぱかぱん」のパンには、地元浦河、日高、そして北海道の食材がふんだんに使われています。藤田泰蔵農園のスーパーアイコ、キッチンサイド・ファームの平飼い鶏の卵、三協水産の銀聖スモークサーモン、えりもの高橋さんの短角牛日高乳業のバターや生クリーム、道産小麦のハルユタカ、などなど。以西さんは、昔からパンづくりが好きで、お裾分けで頂く、地元の美味しい野菜や乳製品をつかってパンを焼き、集まりの場などに持っていっていたのが、いつの日か本業になってしまった、といいいます。以西さんの、この地の恵みへの感謝と、人との関わりが焼き込まれているような「ぱんぱかぱん」のパンと、「ぱんぱかぱんマルシェ」という場は、とても似ています。人がつくるものは、その人そのものであることに、改めて気付きました。

「マルシェ」はいろいろな可能性を秘めた場


 最後に、以西さんは、この「マルシェ」に、もうひとつ加えたいことがある、ということを話してくれました。もう何年も続いている、地元の小中学生を対象とした「ケーキづくり教室」。そこで、お菓子づくりに楽しさに出会った子どもたちの何人かが「パティシエになりたい!」という夢を持ち、お菓子づくりの勉強をするためにまちをでていきました。心から応援したい、という気持ちを持ちつつも、自分で厨房と店舗を構えて、それを生業にしていくのは、本当に大変なことである現実も、以西さんにはよくわかっています。残念ながら、夢をあきらめてしまった子もいたといいます。

 そんな時に、札幌で出会ったのが、ワゴン車をつかった「移動カフェ」でした。「ああ、これなら小さくても、自分でお店をはじめることができるんじゃないか」。自分の夢を仕事にするひとつの方法として、子どもたちに見せてあげたい、と以西さんは思ったそうです。今年は、残念ながら実現には至らなかったけれど、来年は必ず実現したいと思っている、とのことでした。

 「つくる人」と「つかう人」が直接出会うこと。それは、美味しい食べ物や、素敵な雑貨という「もの」のやりとりだけではなく、「つくる人」のこだわりや生きかたに触れ、あるいは「つかう人」の喜びに触れられる、ということなのだと思います。特になかなか出会う機会のない人々にとっては貴重な場なのではないでしょうか。「つくる人」「つかう人」が、それぞれに思いをはせ、あるいは憧れるような場所になりうる可能性が「マルシェ」にはありそうです。浦河にすでに息づいている「食を通して地域をつなぐ場」として、大きな可能性を秘めていると思いました。来年は、どんな「マルシェ」になるのか、今からとても楽しみになりました。

浦河の食の恵みを味わいながら


嬉しそうにパンの説明をしてくれる以西さん
ここまでの話、以西さんにお願いして用意してもらった軽食(という量をはるかに超えるものでしたが)を頂きながら、伺いました。「一度こういうことをしてみたかったの!」と目を輝かせて、説明してくれたのは、私たちに、地元の食材の美味しさを味わってもらうために考えられたスペシャル・コース。藤田さんのスーパーアイコとその水分だけで焼いたトマトのパン。「ぱんぱかぱん」に住む酵母をつかったパンと普通のイーストをつかったパンの食べくらべ。浦河の小笹養蜂園の4種のはちみつと日高乳業のバターを添えて。新冠のホロシリ牛乳とキッチン・サイドファームの卵をつかったクリームパン。浦河の鮭をつかったクリームシチュー。地元の野菜を塩だけで煮込んだ野菜スープなどなど。


左からアカシア、れんげ、菩提樹、黄金草の蜂蜜
 他にも書ききれないほど、いろいろ用意してくださっていました。とにかく、地元の美味しいものを食べてみて欲しい、という以西さんの思いが伝わってくる「軽食」でした。


「ぱんぱかぱんマルシェ」の素敵な物語と、「ぱんぱかぱん」のパンと地元の食材を、存分に味わえたのは、姉帯さんが「ぱんぱかぱんマルシェ」に興味を持ったことがきっかけでした。そして、その姉帯さんも、来年の夏から、まちの人たちとともに、浦河の魅力を再発見するような、試みを行おうとしています。このような試みが、地元で長く続けられてきたことに、彼女も勇気づけられたのではないかと思います。もちろん、私自身も力を頂いたような気がします。人々のまちへの思いというのは、世代や時間を超えて、連鎖していくんだな、と思った夜でもありました。

(宮浦宜子)







2012年11月8日木曜日

ヨソ者と若者によって

 宮浦さんというヨソからの人を「研修生」に迎えてから1ヶ月と少しが過ぎました。
本人のみならず、わたしたち協議会メンバーにとっても刺激的な毎日の連続です。

協議会事務所にもなっているマルセイ事務所にて
レポートを作成中のコーヒータイム。

彼女の発信するうらかわの情報は、遠くの「ヨソ者」に限らず当地で暮らす浦河町民や浦河を離れて暮らす浦河出身者の元にも、魅力あるレポートとして伝わっているようです。協議会代表の小山がこのところ何度となく声をかけられるのが、「あんた、よくぞあんな人材を連れてきたくれたなぁ。ありがとう!」という言葉です。


こんな嬉しい反響からも、町づくりに必要だといわれている、「ヨソ者」 「若者」 「バカ者」 がどんどん協力しあえるようつながりが生まれ、ワクワク感を感じる最近の浦河です。





 




地元の魚屋さんが主宰して
3年目の「磯場屋(いそばや)学校」に参加。
エプロン姿に照れてます。
このワクワク感の始まりの火種となった若者が、間もなく25歳になる村下知宏くんです。実は娘の小学校からの同級生の彼、私などは、ついつい「村下さん」ではなく「村下くん」と言ってしまっています。
(実際は、親しみを込めて小さなころからの愛称の、「ともじ」とも呼んでいます^^)

浦河高校を卒業後、東京での大学時代から「地域活性化」というテーマに関わる活動を続けていた村下くん。上京後に改めて出身地の浦河を外から見たことがきっかけで、大学卒業後に「地域を元気にするビジネスを立ち上げたい」という想いを持つ仲間と一緒に東京都・奥多摩町に移住して起業したのが、2010年の春のことでした。

自ら「ヨソ者・若者・バカ者」として新しい地域に入り、実際に活動した中で、「何をすれば地域のためになるのか?」 「どうすれば自分たちが自立できるビジネスを立ち上げられるのか」 という二つの相反する課題にぶつかったそうです。

この地域に入る前に、NPOや企業でも地域活性化に関する勉強をしてきた仲間と一緒に、自分たちのアイデアや出来ることを頼りにパソコン教室や町内のアーティストの情報発信、空き店舗の再活用など、色々と試みてみたものの中々うまくは行かなかったようです。一年後、彼は学生時代にお世話になっていた地域づくりに関するコンサルティングを行う企業の方からの誘いを受けて、奥多摩の活動からの離脱を選択。「自分の能力不足を痛感した」と言いますが、大切な経験でしたね。

期間限定でお世話になったというその企業で関わった主な仕事が、市町村などに対して「ヨソ者」の視点から新しい発想や企画を提供するのと同時に、その地域が抱える課題や展望に繋がる企業を繋げてゆくような自治体へのアドバイス業務。そして、都市部の人材と地域とのマッチング業務として、「ヨソ者」「若者」「バカ者」に地域で活動してもらうための支援でした。

マルセイニュース90『地域に種火を起こし、人と人をつないでいきたい』 村下くんの寄稿参照

収入を補うために草取りのアルバイトも経験。
すべてのことが、貴重な経験としていかされるはず!
一緒にがんばろうね、ともじ^^
この春、彼は浦河に帰って来ました。そして、この2年間で自らが学んだこと、「ヨソ者が種火となって地域の普通の人たちを繋げる」という実践に挑戦しています。
「若者」としての自らの存在と、「ヨソ者」として多様な視点を持つ研修生を迎えたことによって、浦河には種火が起きたようです。さあ、あとは「バカ者」たちが登場するだけ!地域コミュニティ力のある浦河です。彼らと一緒に新しいつながりを実感しながら、自分たちで育んでいく町づくりを、みなさまとも共有できたらと思います。

(小山祥子)

2012年11月1日木曜日

ヨソからの人による 「新しい風」

浦河においでいただいた地域再生プランナーの久繁哲之介さんの新書、 『コミュニティが顧客を連れてくる』を読んで改めて認識させられたことがあります。それは、浦河が「地域コミュニティ力」のある町だということです。

「浦河の魅力は人です」と言ってくださるヨソの人がいらっしゃいます。耳にする機会に恵まれることがあっても、なんだかいまひとつしっくりとはいかず、照れくさい思いの方が強い言葉でした。でも、この本の中で「地域コミュニティ力がある町」という言葉に出会ったときに、そうそう、そういうことだったのかもしれないと思えたのです。

町の人のコミュニケーション能力がある町=浦河の魅力は人=地域コミュニティ力のある町。うん。なんだかストンと腑に落ちる気がしました。


『うらかわ「食」で地域をつなぐ協議会』 が研修生として宮浦さんを迎えてから、今日でようやく1ヶ月。この間、なんと濃密な1か月だったことでしょう。ヨソからの視点を持つ人を仲間に迎えて協議会メンバーが感じているこのワクワク感は、すでに多くの方へと伝わり、新しいつながりを生みだし始めているように感じています。


『形式的な取材では絶対に聞き出すことができないであろう「地元のコミュニティで普段、自然かつ濃密に交わされる本音」を「地域コミュニティの営み」から得た気づきや知見を考察したものです。つまり、本という「モノを作るために取材」したのではなく、各地域に訪れて「コミュニティを築いて、感じたコト」が本になっている。』 
(『コミュニティが顧客を連れてくる』より)


連日懸命に「今日の分」に追いつこうと書き上げている宮浦さんのレポートですが、これもまた、「地域コミュニティの普段の営み」から感じた浦河なのでしょうか。そこには、暮らしている私たちがあっさりと見落としていたり気付けないでいる大切なものが、実にイキイキと表現されていたりして驚かされることも多いです。

宮浦さんが当協議会の研修生として浦河で暮らすのは半年間。先日はなんと3年ぶりに風邪をひいてしまったそうですが、さすがのハードスケジュールに「この1ヶ月、少し走りすぎちゃったね」と笑いながらも、やっぱり今日も飛ばしている感じです。


どうやら、そんな彼女のパワーのひとつになっているのが浦河の美味しい食べ物の数々のようです。今夜も夜の会議に出かける前に、ぱんぱかぱんさんのハンバーガー(えりもの高橋さんの短角牛が使用されています)を食べて出かけていましたが、今日もご覧のおいしいえがおです。
(小山祥子) 

サメガレイとの格闘と哲学的いくらの醤油漬けー磯場屋学校

 10月14日(日)。今日は、浦河にたくさんある魚屋さんのひとつ「池田鮮魚店」の池田さんが校長を、魚市場に毎朝通い、その日あがった魚をブログで紹介してくれている小野さん(本業は役場の職員さんです)が教頭を務める「磯場屋(いさばや)学校」へ。磯場屋とは魚屋のこと。「磯場屋学校」は、浦河であがる新鮮で美味しい魚を地元の人にもっと食べてもらいたいという気持ちから、また、日本全体で魚食が減少傾向にあるなかで、このままでは、まちから魚屋が消えていってしまう、という危惧を持って、一昨年からスタートした学校です。

 まさに、浦河に住んだら、魚のさばき方を身につけたい、と思っていた私にとっては、願ったりかなったりの機会です。こういう学校を、すでにはじめている人がいる、というのが浦河のすごいところ。そして、参加者15名のうち、半数近くが男性。すばらしいことです。

サメガレイとの格闘


正直、最初はひるみました
 今日の授業内容は「サメガレイの5枚おろし」と「いくらの醤油漬け」。

 サメガレイ担当はもちろん校長。プロの技を身につけよう気合いを入れている参加者を前に「昨日、私も一応Youtubeで予習しました。復習には、そちらもぜひ参考にしてください」と言う、お茶目っぷり。とは言え、お手本を見せてくれる手つきはやはりプロのそれです。 

 サメガレイはその名の通り、サメのような荒々しい表皮をもつカレイ。ケガをする可能性があるので、軍手をはめて触ります。まずはえんがわを切りとるのですが、実際にやってみると、もうその時点で包丁が入らない。魚をさばくには、意外と力も必要なんですね。初心者は包丁が入りやすいポイントを見つけられないので、なおさらです。

 そして、いよいよ皮むき。裏側の尾の近くから、表皮の手前まで包丁を入れ(私はお約束のように失敗し、表皮が半分切れましたけど)、表皮と身の間に親指をいれ、尾と身をつかんでバリバリと引きはがします。これも、かなり力がいるので、教室内はアクロバティックな様相に。でも、きれいにむけると、歓声があがります。

 皮をむいたら、いよいよ五枚おろし。ここまでの私をはじめとする参加者の包丁さばきレベルを見てか、校長は「五枚おろしはやめて、煮付け用にぶつ切りにしようか」とおっしゃったのですが「せっかくなので五枚おろしやりたいです!」と主張し、予定通りチャレンジすることになりました。

 ところで、みなさんは五枚おろしがどんなものかご存知ですか。私は直前まで、背骨と、その上下の身を薄くそいだ2枚で計5枚と信じていました。なので、上下の身を2つに割って5枚にするのが「五枚おろし」とを知って、それなら楽勝、と思ったのですが、そう甘くはありませんでした。

 まずは背骨にそって、包丁を入れ(ファスナーを開く感じ)、そこから背骨と身の間に包丁をいれて身を外します。校長は「包丁が骨にあたってコツコツというのを感じながら切るときれいに外れます」とおっしゃるのですが、コツコツなんてしない…。「あれ、まだ骨に触らない」などど、何度も包丁をいれているうちに、身はどんどん刻まれ、崩れていきます。一枚目は「切り身を目指していたらしきもの」という代物に。

正面を向いているのが池田校長
 また、それだけ悪戦苦闘するということは、長時間、暖かい手で魚を触り続けているということにもなります。「これはお刺身で食べられる新鮮な魚ではありますが、みなさんの様子を見ていると、お刺身にはされないほうが安全かと思いますね(満面の笑顔)」と校長夫人(池田さんの奥さま)からのアドバイス。サメガレイは、その脂ののりから、煮魚にされることが多いそうですが、校長の一番のおすすめは「唐揚げ」。刺身にはできなくても、美味しい食べ方はたくさんあるようなので一安心。




哲学的「いくらの醤油漬け」に驚く


 そして、次はいくらの醤油漬け。毎年、この時期は秋鮭漁の最盛期なのですが、この夏の北海道の異常気象のため海水温が下がらず、まだ港にはそれほどあがっていないという状況(現在は持ち直してきているようです)。

「今年は○○が不漁」というニュースは、私にとって遠い出来事のひとつだったのですが、浦河にやってきてから、漁業に関わるまちの人にとって、それがどんなに大きなことなのか、ということが少しずつ感じられるようになってきました。そんな中での、いくらの醤油漬け。本当に本当に、貴重なものです

 いくら担当は校長夫人、磯場屋のおかみです。「今日は『池田家のいくらの醤油漬け』を、みなさんにお教えします。これは私がお嫁にきた池田家のお義母さんから教えて頂いたものです。それぞれの家に、それぞれのいくらの醤油漬けがあります。でも、私はこれしか知りませんので、これをみなさんにお教えします」。浦河の各家の冷蔵庫には、ひとつとして同じもののない「いくらの醤油漬け」が入っていて、それぞれが、これが「いくらの醤油漬け」だと思っている、というのは、実はとても豊かなことなんじゃないかと、思います。

今の子どもはいくらになる前の筋子、知っているのかな
 ひとりにつき筋子片腹が配られます。まずは、薄皮から魚卵を外すために、水をはったボウルに入れ、少量の塩を入れます。「池田家では、お湯にはつけません。冷たい塩水につけます」。参加者の中から「へー」という声があがります。魚卵を外すときには、熱いお湯につけるのが一般的な認識のようなのですが、私にとっては、そもそもお湯を使うこと自体が驚きでした。鮮度が落ちてしまいそう。


「皮から卵を外す時、ラケットや網を使う人が多いですが、うちでは使いません。手で外します」。また、そこでも「ヘー」という声が。筋子は全体が完全に皮で覆われているわけではなく、すっと一筋、切れ目があります。そこに指を差し込み、まずはシート状にひらきます。その時点でもう、魚卵がつぶれるのではないかとひやひやです。さらにそれを手で外すって、大丈夫なの?と、不安がふくらみます。


 「開いた筋子を皮を表に二つ折りにたたんで、上と下から手ではさみます。そして、両手を静かにこすりあわせると、ほら。卵が外れてきます」。なんと、卵で卵を外す、という方法なのでした。確かに、ぽろぽろ魚卵が外れてきます。つぶれそうで怖いのですが、意外とそんなことはありません。恐らく、新鮮な筋子を使うからこそ、成立する方法なのでしょう。魚屋を営む池田家ならでは、かも知れません。外れた魚卵をすすぎ、からみついている皮や血管などのゴミを取り除き、いよいよ味付けです。

池田家の漬け汁を調合する校長夫人
 事前に、漬け汁の配合について、いくつかのパターンが載っている表が配られました。基本の材料は醤油、日本酒、みりん、そして人によっては鰹だしを使うようです。

 「今日はこの表は使いません。池田家の漬け汁をお教えします。うちでは、昆布醤油と酒を使います。でも、配合の割合はありません。うちのレシピはこれです」と、漬け汁に人差し指をつけて、ぺろりとなめる校長夫人。

 「私は舌で義母の味を覚えました。もちろん、舌が頼りですから、味は変わります。『ちょっと薄味だったね』『今回は濃い目だね』という会話も、食卓の大事な『一品』になるんじゃなるんじゃないでしょうか」 。

 つくるたびに味が変わること、それを家族で確認しあうこと。それもまた「一品」なのだ、というこの発想。一定しているからこそ「我が家の味」であると思っていた私にとっては、衝撃の一言でした。味は、決まっているけど、決まっていない。私は、この哲学的な「池田家の漬け汁」を、ありがたく自分の漬け汁として、使わせて頂きました。魚卵がちょうどひたるくらいの漬け汁に魚卵を漬けこみ、一晩おいてから汁を捨てることで、「池田家のいくらの醤油漬け」は完成します。 


私の「赤い宝石」
 校長夫人はこんな話もされていました。参加者が魚卵を外している時のことです。筋子の時にはほとんど違いが見えなかったものが、ばらばらになると違いが見えてきます。色の薄いもの、濃いもの、粒の大きいもの、小さいもの。なんとなく、色が薄くて小さいと、よくないような気もしてきます。


 参加者のそんな様子をみて、校長夫人は言います。「人間も、佐藤さんと田中さんで、顔かたちが違ったり、鼻の高さが違ったり、肌の色が違ったりするでしょ。同じように、鮭も一尾ずつ違うのです。お母さんがそれぞれ違うのだから、卵だって、それぞれ違うのはあたりまえ。でも鮭の卵という意味ではみんな同じなんです」。これまで「鮭」「カレイ」とひとくくりにしていた魚たちも、それぞれが固有の生命なのだ、ということを、こんなかたちで認識させられるとは思ってもみませんでした。


 磯場屋のおかみであり、池田家の嫁である、校長夫人が語る言葉は、ひとつひとつがきらりと光っていて、人々の営みの中から生まれてきた生の言葉には、本当にかなわない、と心から思いました。そして、こういう言葉に直に触れられることの幸せを感じました。

試食会まで贅沢な「磯場屋学校」


 そして、最後はお待ちかねの試食会。私たちが、サメガレイやいくらと格闘している間、教頭とスタッフの方たちは、ずっとこの試食会のための準備をされていたのでした。この日のメニューは、タラのソテー2種と鮭の炊き込みご飯(レシピはこちら。とても上品なお味で、おもてなし料理にぴったり)。最初は、その日さばいた魚をその場で料理しないのが、不思議に思えましたが、いろいろな魚を味わい、料理方法に触れてもらうには、とても良い構成、と納得しました(もちろん時間の関係もあるかも知れませんが)。 

料理の説明をする教頭
 美味しい食事を頂きながら(ものすごくお腹がすいていて、写真を撮るのを忘れて食べてしまいました)、参加者の自己紹介。ずっと参加したいと思っていたが、ようやく都合がついて参加することができた、という主婦の方。実家が漁師なので魚をさばく姿はたくさん見てきたけれど、自分はしたことがなかったので、できるようになりたい、と去年から参加している日高振興局の男性職員。今年の春に転勤してきたばかり、せっかく魚の美味しいところに来たので、もっと魚を食べてみたいと参加されたご夫婦。

 ひとりの転勤族の奥様の「こんな教室があるなんて、浦河は普通の田舎ではないですよね」という言葉には、まったくもって同感。魚屋さんを先生に、とびきり新鮮な魚をさばき、美味しく食べる。「磯場屋学校」は、本当に贅沢な学校です。


鮭の心臓はイタリアンやフレンチの食材にもなりそう
 贅沢といえば、途中でお皿がまわってきたこの料理。鮭の心臓を塩胡椒で軽くいためたもの。心臓ですから、一尾にひとつだけ。私たちにも、ひとつだけ。生臭みは全くなく、砂肝を少しやわらかくしたような食感で、あとをひく美味しさ。いつか、思う存分食べてみたいと思いました。


 この鮭の心臓も、教頭がぜひ参加者に食べてもらいたいと、校長に用意してもらったものだそう。校長、校長夫人、そして教頭。みなさんの、魚と参加者への愛情がこもった素敵なプログラムでした。



白ワインと頂きました
 腕をカバーするのはいい道具、と出刃包丁を手にいれることを心に決め、夜には札幌へ。早速、実家でサメガレイをムニエルにしてみました。本当に驚くほど脂がのっているので、母のアドバイスで、パセリをたっぷりとのせて、さっぱりと頂きました。母は釧路の出身ですが、実家では食べた記憶がない、と言います。

 サメガレイ、かつてはそのグロテスクな姿ゆえか、あまり人気がなかったけれど、近年その価値が見直されてきている魚のひとつなのだそうです。この脂の感じは、魚を食べつけない若い人にも、好まれるだろうな、と思いました。これから人気がでそうな魚です。

 金曜日のさんまの煮付けと鮭汁、土曜日のいかと飯寿司、そして今日のサメガレイといくらの醤油づけ。この3日間で、浦河の魚とそれにまつわる文化の一端に触れることができましたが、多分これは、ほんのはじまりに過ぎないのでしょう。季節ごとのさまざまな魚、そして、魚を穫ること、商うこと、料理すること、食べることにまつわる豊かな文化に、この先にどれだけ出会えるのだろうと思うと、これからが本当に楽しみです。

※磯場屋学校への参加の様子は協議会メンバーもレポートしてくださってます。

(宮浦宜子)