2012年12月31日月曜日

大みそかの食卓を彩るー丸真仕出し・弁当店


毛がにの山というのを初めてみました
12月30日。浦河の荻伏町にある「丸真仕出し・弁当店」。80歳を越える、社長の真下さんは、今の場所で仕出し業をはじめてから40年、それ以前に荻伏駅前で食堂を営んでいた期間も合わせると、もう50年近く、この地の食を支えてきた方のひとりです。浦河に来てから、いろいろなところで「丸真さんの『キンキン(きちじ)のいずし』は絶品だよ」という話を聞いていたのですが、そのうちに「キンキンのいずし」は、単品で販売するためのものではなく、毎年の大みそかのための特別な仕出し「年越しオードブル」の目玉の一品としてつくられるということを知りました。11月に「キンキンのいずし」の仕込みにお邪魔した時に「年越しオードブルをつくる数日間は、まるで戦場よ」という話を聞き、年の暮れの浦河の食卓を彩る、食の現場のひとつにどうしても触れたくて、丸真さんの調理場にお邪魔しました。


1ページも割いて紹介して頂きました
調理場に入っていくと、たくさんの調理人(多くはまちのお母さんたち)が、まさに調理の真っ最中。社長の真下さん家族とは、お裾分けを頂いたり、立ち話をしたりする間柄でも、多くのみなさんにとって、私は見知らぬ人。カメラを下げて、突然、調理場に入ってきた私に、当然のごとく怪訝な表情をされています。あわてて、うらかわ「食」で地域をつなぐ協議会の研修生として10月から浦河で暮らしていて、浦河の食のことをいろいろ取材している、ということを伝えます。「どこかで見た顔だと思ったら、町報に載っていたでしょ!」と、ひとりのお母さん。続いて「見た、見た」という声があがり、ようやく空気が少し緩みました。これも、浦河町役場が「広報うらかわ」で協議会の活動を紹介して下さっていたおかげです。











1000枚を超える鮭を焼いていきます
今年の年越しオードブルの発注数は、例年通り数百皿。想像を絶する量です。いずしなど、オードブルに使われる料理の仕込みは、早いものでは11月から始まっていますが、大人数での調理や盛りつけは大晦日までの数日間の間に行われます。私が伺った時には、焼き鮭チーム、毛がにチーム、いずしチームなど、各所に分かれて粛々と調理や盛りつけをしていました。





丁寧に包丁を入れていきます

盛りつけを相談するベテランお母さんと真下さん

年越しオードブルの現場を取材するきっかけになったお母さんから、「写真だけ撮ってても何だから、はい、手を洗って!」と三角巾とエプロンを渡され、気付いたら私も毛がにチームの一員に。毛がにチームでは、甲羅を外し、ふんどし(腹筋)を取り、足にも甲羅にも裏側から包丁を入れます。私は、ふんどし取りを担当。かにの姿はそのままに、食べやすいようにひと手間かけるのが、丸真さんの昔からのやり方だそう。しかし、それも100パイを超えるとなると、ものすごい仕事量になりますが、それでもなお、そのひと手間をかけ続けていることに、食べる人への愛情を感じます。



毛がに作業が終了した後は、いずしチームに合流。お母さん2人は、朝から担当していた「トラウトサーモンのいずし」の盛りつけを終え、いよいよ「キンキンのいずし」の盛りつけに移ります。まずは、ひとつ見本をつくって、盛りつけ量の判断を真下さんにしてもらいます。一度量を決めたら、後は一定に盛りつけていくので、最初の判断は重要です。もし、後で足りなくなってしまったら、盛りつけ直しになってしまうので避けたい。じゃあ、どのくらいまでなら増やして大丈夫かとお母さんたちと相談します。せっかくみんなが楽しみにしてくれているのだから、少しでも多く分かちあいたいという、という真下さんの思いが伝わってくるやりとりでした。量が決まれば、あとはひたすら、桶からいずしを出し、切り、盛るのくり返し。朝からずっと同じ姿勢での作業で、大変な仕事です。とはいえ、私が代われるわけもなく、私は盛りつけた皿を箱に並べ、笹型のバランを添えるという、ささやかなお手伝いをさせて頂きました。


とにかく数をこなすのでどんどん上手に
総勢20人近くいる「年越しオードブル」調理人チーム。中心メンバーは、もちろんお母さんたちです。「平成2年から、ずっと年末は年越しオードブル」というお母さんは、ご自宅の年越し準備は全て旦那さまがやってくれているそう。20年という月日の中でそういう役割分担がなされてきたのでしょうか。家族ぐるみで、この大事な仕事が支えられているようです。そんなお母さん集団の中に、一人混じっていた高校生の男の子。去年までは、お兄さんが手伝っていたけれど就職してしまったので、今年から自分が来ることになったとのこと。果てしなく続く作業に、一瞬へばり気味の様子も見えましたが、中心メンバーの年齢が少しずつ高くなっていく中で、若き戦力として活躍するとともに、お母さんたちのアイドルとして調理場を潤す、という大切な役割も果たしていました。








いきいきと働く、小さな調理人たち
そして、調理人部隊の最年少は、真下さんのお孫さんの2人の小学生の女の子たち。ここ数年、卵割りをかき混ぜを担当している、と誇らしげに教えてくれたのでした。












祝いの一皿
家族や友人が集う、大晦日の食卓。この地で、その幸せな食の時間を支えてきた現場のひとつをご紹介して、今年の最後の研修生レポートとしたいと思います。

101日に、浦河にやってきてから、いろいろな食の現場に足を運びました。穫る、育てる、つくる、商う。たくさんの食材、人、それを取り巻く場に出会い、この地の食の豊かさに触れてきました。






これまで、この研修生レポートを通して、ささやかながらその現場をお伝えしてきましたが、来年1月初旬に「うらかわ『食』の手帖」というタイトルで、新しい情報ブログをスタートする予定です。少しでも多くの人と浦河の食についての情報を共有していければと思っています。

最後に、今年、浦河にて、たくさんの驚きと喜びを与えてくれた、食を支えるみなさん、そして魚、肉、野菜などの食材たちに、心から感謝し、年末のご挨拶としたいと思います。そしてまた、来年もどうぞ宜しくお願いします。
(宮浦宜子)

2012年11月11日日曜日

地域の食と人の出会いの場ーぱんぱかぱんマルシェ

10月16日(火)。札幌から浦河へ向かい、そのまま「ぱんぱかぱん」での集まりへ。来年から、浦河で長期的なプロジェクトをはじめようとしている浦河出身のインテリアデザイナー姉帯さん。同じ浦河で、パン屋を営みながら「ぱんぱかぱんマルシェ(去年までは「ぱんぱかぱんの手づくり市」という名前)」というイベントを10年間続けてきた以西(いさい)さんからは、きっと学べることがあるに違いない、と「ぱんぱかぱんマルシェ」のこれまでついて伺おうという会に同席させて頂きました。集まったのは、姉帯さんのプロジェクトに共感しているメンバー3人と、協議会のメンバー、石黒さん、村下さんと私。

私と「ぱんぱかぱん」の出会い


はじめての浦河でパンを食べながら眺めた海
 浦河のパン屋さん「ぱんぱかぱん」は、私が今年の8月「うらかわ『食』で地域をつなぐ協議会」の研修生の募集を知って浦河に興味を持ち、とにかく自分の目でどんなまちなのか確かめようと訪れた時に、最初に食べた浦河の「食」でした。お店に入る前に驚いたのは、海に面していること。パン屋さんといえば、なんとなく山あいや、まちの中にあるイメージがあります。しかも「ここで、どうぞ」といわんばかりに、海辺にベンチが置いてあるのです。札幌からのドライブの後で、とにかくお腹が空いていた私は、連れてきてくれた村下さんに頼み、ベンチに座って買ったパンにかじりつきました。1個だけのつもりだったのが、止まらずもう1個。美味しいパン屋さんがないと生きていけない私は「ああ、ここに住めば、パンには困らない」と興奮したことを覚えています。

「ぱんぱかぱんマルシェ」のはじまり


多くの人でにぎわう「ぱんぱかぱんマルシェ」
 2012年9月8日(土)、「ぱんぱかぱん」の隣の空き地で「ぱんぱかぱんマルシェ」というマーケットが開かれました。この「ぱんぱかぱんマルシェ」、前年までは「ぱんぱかぱんの手づくり市」という名前で年1回行われていたそうです。15年前に、現在の場所にお店を移してから、手づくりの雑貨をお店に置いてもらえないか、とまちの人から相談されたことをきっかけに、店内での販売と並行して、年に1回、お店の隣の空き地をつかって、手づくり雑貨とパンを販売する「手づくり市」を開くようになったといいます。

 毎年続けていくうち、以西さんの中では、現状の「手づくり市」に満足はしつつも、いつかは、パンの材料として使わせてもらっている、地元の野菜や乳製品などの生産者の方たちも参加する「マルシェ」にしていきたい、という気持ちがふくらんできたそうです。とはいえ、こだわってものをつくっている生産者の方はみんな忙しい。いつか、声をかけたいと思いつつも、なかなかきっかけがつかめないまま何年かが過ぎていきました。

中学生たちとの出会いと新しい展開


 そして今年のこと。浦河第一中学校のひとりの先生が「ぱんぱかぱん」を訪ねてきました。3年生の生徒たちに、浦河における「地域のつながり」について目を向けさせたいと考えていた沼倉先生は、地元のさまざまな食材をパンの材料にしている「ぱんぱかぱん」に注目することで、いろいろなつながりが見えてくるのではないか、という生徒のアイディアを実現させようと思い、以西さんに総合学習への協力をお願いしたのでした。

 「ぱんぱかぱん」で、以西さんのお話と以西さんがつくるパンに出会った中学生たちの関心は、当然のようにパンにつかわれている素材をつくっている人々にも広がっていき、生産者の方々にインタビューをすることになりました。それを知った以西さんは、ついに待っていた「きっかけ」がやってきた、と生産者の方々に「手づくり市」に出店してくれないか、と相談したのです。生産者の方々は、快く出店に賛同してくれました。地域の中学生たちとの出会いをきっかけに、ついに「手づくり市」が「マルシェ」となったのです。

 さらに、中学生たちと「ぱんぱかぱん」の出会いは、もうひとつの新しい展開を生みました。沼倉先生から、ぜひ中学生たちに「マルシェ」のお手伝いをさせて欲しい、という申し出を頂いたのです。30人近くの中学生たちが、それぞれの出店者のブースで、接客をしたり、子どもたちとおもちゃで遊んだり、カメラマンになったり、大活躍したそうです(その様子が日高報知新聞に掲載されています)。以西さん、生産者のみなさん、そして、手づくりの雑貨やおもちゃのつくり手さんたち。中学生の彼らが、こだわりを持ってものづくりをしている、いきいきとした大人たちに、地元で出会ったことは、彼らが将来、どうやって生きていくか、ということを考える時に、ひとつの重要な経験となることでしょう。また、まちの未来を担っていく子どもたちが、興味や関心を持って、自分たちの営みに触れてくれたことに、力をもらった大人たちも多かったのではないかと想像します。

 ひとつの出会いをきっかけに、まちの多様な人を巻き込むことになっていった「ぱんぱかぱんマルシェ」。今年は、例年以上に多くのお客さんが訪れ、また長い時間をそこで過ごし、楽しんでいったと言います。いつか、もっと豊かな場に、という思いを秘めつつ、10年間この場をつくり続けてきた、以西さんの気持ちに、まちが自然に応えてくれた。私には、そんな風に思えます。

海の見える厨房に立つ以西さん
 「ぱんぱかぱん」のパンには、地元浦河、日高、そして北海道の食材がふんだんに使われています。藤田泰蔵農園のスーパーアイコ、キッチンサイド・ファームの平飼い鶏の卵、三協水産の銀聖スモークサーモン、えりもの高橋さんの短角牛日高乳業のバターや生クリーム、道産小麦のハルユタカ、などなど。以西さんは、昔からパンづくりが好きで、お裾分けで頂く、地元の美味しい野菜や乳製品をつかってパンを焼き、集まりの場などに持っていっていたのが、いつの日か本業になってしまった、といいいます。以西さんの、この地の恵みへの感謝と、人との関わりが焼き込まれているような「ぱんぱかぱん」のパンと、「ぱんぱかぱんマルシェ」という場は、とても似ています。人がつくるものは、その人そのものであることに、改めて気付きました。

「マルシェ」はいろいろな可能性を秘めた場


 最後に、以西さんは、この「マルシェ」に、もうひとつ加えたいことがある、ということを話してくれました。もう何年も続いている、地元の小中学生を対象とした「ケーキづくり教室」。そこで、お菓子づくりに楽しさに出会った子どもたちの何人かが「パティシエになりたい!」という夢を持ち、お菓子づくりの勉強をするためにまちをでていきました。心から応援したい、という気持ちを持ちつつも、自分で厨房と店舗を構えて、それを生業にしていくのは、本当に大変なことである現実も、以西さんにはよくわかっています。残念ながら、夢をあきらめてしまった子もいたといいます。

 そんな時に、札幌で出会ったのが、ワゴン車をつかった「移動カフェ」でした。「ああ、これなら小さくても、自分でお店をはじめることができるんじゃないか」。自分の夢を仕事にするひとつの方法として、子どもたちに見せてあげたい、と以西さんは思ったそうです。今年は、残念ながら実現には至らなかったけれど、来年は必ず実現したいと思っている、とのことでした。

 「つくる人」と「つかう人」が直接出会うこと。それは、美味しい食べ物や、素敵な雑貨という「もの」のやりとりだけではなく、「つくる人」のこだわりや生きかたに触れ、あるいは「つかう人」の喜びに触れられる、ということなのだと思います。特になかなか出会う機会のない人々にとっては貴重な場なのではないでしょうか。「つくる人」「つかう人」が、それぞれに思いをはせ、あるいは憧れるような場所になりうる可能性が「マルシェ」にはありそうです。浦河にすでに息づいている「食を通して地域をつなぐ場」として、大きな可能性を秘めていると思いました。来年は、どんな「マルシェ」になるのか、今からとても楽しみになりました。

浦河の食の恵みを味わいながら


嬉しそうにパンの説明をしてくれる以西さん
ここまでの話、以西さんにお願いして用意してもらった軽食(という量をはるかに超えるものでしたが)を頂きながら、伺いました。「一度こういうことをしてみたかったの!」と目を輝かせて、説明してくれたのは、私たちに、地元の食材の美味しさを味わってもらうために考えられたスペシャル・コース。藤田さんのスーパーアイコとその水分だけで焼いたトマトのパン。「ぱんぱかぱん」に住む酵母をつかったパンと普通のイーストをつかったパンの食べくらべ。浦河の小笹養蜂園の4種のはちみつと日高乳業のバターを添えて。新冠のホロシリ牛乳とキッチン・サイドファームの卵をつかったクリームパン。浦河の鮭をつかったクリームシチュー。地元の野菜を塩だけで煮込んだ野菜スープなどなど。


左からアカシア、れんげ、菩提樹、黄金草の蜂蜜
 他にも書ききれないほど、いろいろ用意してくださっていました。とにかく、地元の美味しいものを食べてみて欲しい、という以西さんの思いが伝わってくる「軽食」でした。


「ぱんぱかぱんマルシェ」の素敵な物語と、「ぱんぱかぱん」のパンと地元の食材を、存分に味わえたのは、姉帯さんが「ぱんぱかぱんマルシェ」に興味を持ったことがきっかけでした。そして、その姉帯さんも、来年の夏から、まちの人たちとともに、浦河の魅力を再発見するような、試みを行おうとしています。このような試みが、地元で長く続けられてきたことに、彼女も勇気づけられたのではないかと思います。もちろん、私自身も力を頂いたような気がします。人々のまちへの思いというのは、世代や時間を超えて、連鎖していくんだな、と思った夜でもありました。

(宮浦宜子)







2012年11月8日木曜日

ヨソ者と若者によって

 宮浦さんというヨソからの人を「研修生」に迎えてから1ヶ月と少しが過ぎました。
本人のみならず、わたしたち協議会メンバーにとっても刺激的な毎日の連続です。

協議会事務所にもなっているマルセイ事務所にて
レポートを作成中のコーヒータイム。

彼女の発信するうらかわの情報は、遠くの「ヨソ者」に限らず当地で暮らす浦河町民や浦河を離れて暮らす浦河出身者の元にも、魅力あるレポートとして伝わっているようです。協議会代表の小山がこのところ何度となく声をかけられるのが、「あんた、よくぞあんな人材を連れてきたくれたなぁ。ありがとう!」という言葉です。


こんな嬉しい反響からも、町づくりに必要だといわれている、「ヨソ者」 「若者」 「バカ者」 がどんどん協力しあえるようつながりが生まれ、ワクワク感を感じる最近の浦河です。





 




地元の魚屋さんが主宰して
3年目の「磯場屋(いそばや)学校」に参加。
エプロン姿に照れてます。
このワクワク感の始まりの火種となった若者が、間もなく25歳になる村下知宏くんです。実は娘の小学校からの同級生の彼、私などは、ついつい「村下さん」ではなく「村下くん」と言ってしまっています。
(実際は、親しみを込めて小さなころからの愛称の、「ともじ」とも呼んでいます^^)

浦河高校を卒業後、東京での大学時代から「地域活性化」というテーマに関わる活動を続けていた村下くん。上京後に改めて出身地の浦河を外から見たことがきっかけで、大学卒業後に「地域を元気にするビジネスを立ち上げたい」という想いを持つ仲間と一緒に東京都・奥多摩町に移住して起業したのが、2010年の春のことでした。

自ら「ヨソ者・若者・バカ者」として新しい地域に入り、実際に活動した中で、「何をすれば地域のためになるのか?」 「どうすれば自分たちが自立できるビジネスを立ち上げられるのか」 という二つの相反する課題にぶつかったそうです。

この地域に入る前に、NPOや企業でも地域活性化に関する勉強をしてきた仲間と一緒に、自分たちのアイデアや出来ることを頼りにパソコン教室や町内のアーティストの情報発信、空き店舗の再活用など、色々と試みてみたものの中々うまくは行かなかったようです。一年後、彼は学生時代にお世話になっていた地域づくりに関するコンサルティングを行う企業の方からの誘いを受けて、奥多摩の活動からの離脱を選択。「自分の能力不足を痛感した」と言いますが、大切な経験でしたね。

期間限定でお世話になったというその企業で関わった主な仕事が、市町村などに対して「ヨソ者」の視点から新しい発想や企画を提供するのと同時に、その地域が抱える課題や展望に繋がる企業を繋げてゆくような自治体へのアドバイス業務。そして、都市部の人材と地域とのマッチング業務として、「ヨソ者」「若者」「バカ者」に地域で活動してもらうための支援でした。

マルセイニュース90『地域に種火を起こし、人と人をつないでいきたい』 村下くんの寄稿参照

収入を補うために草取りのアルバイトも経験。
すべてのことが、貴重な経験としていかされるはず!
一緒にがんばろうね、ともじ^^
この春、彼は浦河に帰って来ました。そして、この2年間で自らが学んだこと、「ヨソ者が種火となって地域の普通の人たちを繋げる」という実践に挑戦しています。
「若者」としての自らの存在と、「ヨソ者」として多様な視点を持つ研修生を迎えたことによって、浦河には種火が起きたようです。さあ、あとは「バカ者」たちが登場するだけ!地域コミュニティ力のある浦河です。彼らと一緒に新しいつながりを実感しながら、自分たちで育んでいく町づくりを、みなさまとも共有できたらと思います。

(小山祥子)

2012年11月1日木曜日

ヨソからの人による 「新しい風」

浦河においでいただいた地域再生プランナーの久繁哲之介さんの新書、 『コミュニティが顧客を連れてくる』を読んで改めて認識させられたことがあります。それは、浦河が「地域コミュニティ力」のある町だということです。

「浦河の魅力は人です」と言ってくださるヨソの人がいらっしゃいます。耳にする機会に恵まれることがあっても、なんだかいまひとつしっくりとはいかず、照れくさい思いの方が強い言葉でした。でも、この本の中で「地域コミュニティ力がある町」という言葉に出会ったときに、そうそう、そういうことだったのかもしれないと思えたのです。

町の人のコミュニケーション能力がある町=浦河の魅力は人=地域コミュニティ力のある町。うん。なんだかストンと腑に落ちる気がしました。


『うらかわ「食」で地域をつなぐ協議会』 が研修生として宮浦さんを迎えてから、今日でようやく1ヶ月。この間、なんと濃密な1か月だったことでしょう。ヨソからの視点を持つ人を仲間に迎えて協議会メンバーが感じているこのワクワク感は、すでに多くの方へと伝わり、新しいつながりを生みだし始めているように感じています。


『形式的な取材では絶対に聞き出すことができないであろう「地元のコミュニティで普段、自然かつ濃密に交わされる本音」を「地域コミュニティの営み」から得た気づきや知見を考察したものです。つまり、本という「モノを作るために取材」したのではなく、各地域に訪れて「コミュニティを築いて、感じたコト」が本になっている。』 
(『コミュニティが顧客を連れてくる』より)


連日懸命に「今日の分」に追いつこうと書き上げている宮浦さんのレポートですが、これもまた、「地域コミュニティの普段の営み」から感じた浦河なのでしょうか。そこには、暮らしている私たちがあっさりと見落としていたり気付けないでいる大切なものが、実にイキイキと表現されていたりして驚かされることも多いです。

宮浦さんが当協議会の研修生として浦河で暮らすのは半年間。先日はなんと3年ぶりに風邪をひいてしまったそうですが、さすがのハードスケジュールに「この1ヶ月、少し走りすぎちゃったね」と笑いながらも、やっぱり今日も飛ばしている感じです。


どうやら、そんな彼女のパワーのひとつになっているのが浦河の美味しい食べ物の数々のようです。今夜も夜の会議に出かける前に、ぱんぱかぱんさんのハンバーガー(えりもの高橋さんの短角牛が使用されています)を食べて出かけていましたが、今日もご覧のおいしいえがおです。
(小山祥子) 

サメガレイとの格闘と哲学的いくらの醤油漬けー磯場屋学校

 10月14日(日)。今日は、浦河にたくさんある魚屋さんのひとつ「池田鮮魚店」の池田さんが校長を、魚市場に毎朝通い、その日あがった魚をブログで紹介してくれている小野さん(本業は役場の職員さんです)が教頭を務める「磯場屋(いさばや)学校」へ。磯場屋とは魚屋のこと。「磯場屋学校」は、浦河であがる新鮮で美味しい魚を地元の人にもっと食べてもらいたいという気持ちから、また、日本全体で魚食が減少傾向にあるなかで、このままでは、まちから魚屋が消えていってしまう、という危惧を持って、一昨年からスタートした学校です。

 まさに、浦河に住んだら、魚のさばき方を身につけたい、と思っていた私にとっては、願ったりかなったりの機会です。こういう学校を、すでにはじめている人がいる、というのが浦河のすごいところ。そして、参加者15名のうち、半数近くが男性。すばらしいことです。

サメガレイとの格闘


正直、最初はひるみました
 今日の授業内容は「サメガレイの5枚おろし」と「いくらの醤油漬け」。

 サメガレイ担当はもちろん校長。プロの技を身につけよう気合いを入れている参加者を前に「昨日、私も一応Youtubeで予習しました。復習には、そちらもぜひ参考にしてください」と言う、お茶目っぷり。とは言え、お手本を見せてくれる手つきはやはりプロのそれです。 

 サメガレイはその名の通り、サメのような荒々しい表皮をもつカレイ。ケガをする可能性があるので、軍手をはめて触ります。まずはえんがわを切りとるのですが、実際にやってみると、もうその時点で包丁が入らない。魚をさばくには、意外と力も必要なんですね。初心者は包丁が入りやすいポイントを見つけられないので、なおさらです。

 そして、いよいよ皮むき。裏側の尾の近くから、表皮の手前まで包丁を入れ(私はお約束のように失敗し、表皮が半分切れましたけど)、表皮と身の間に親指をいれ、尾と身をつかんでバリバリと引きはがします。これも、かなり力がいるので、教室内はアクロバティックな様相に。でも、きれいにむけると、歓声があがります。

 皮をむいたら、いよいよ五枚おろし。ここまでの私をはじめとする参加者の包丁さばきレベルを見てか、校長は「五枚おろしはやめて、煮付け用にぶつ切りにしようか」とおっしゃったのですが「せっかくなので五枚おろしやりたいです!」と主張し、予定通りチャレンジすることになりました。

 ところで、みなさんは五枚おろしがどんなものかご存知ですか。私は直前まで、背骨と、その上下の身を薄くそいだ2枚で計5枚と信じていました。なので、上下の身を2つに割って5枚にするのが「五枚おろし」とを知って、それなら楽勝、と思ったのですが、そう甘くはありませんでした。

 まずは背骨にそって、包丁を入れ(ファスナーを開く感じ)、そこから背骨と身の間に包丁をいれて身を外します。校長は「包丁が骨にあたってコツコツというのを感じながら切るときれいに外れます」とおっしゃるのですが、コツコツなんてしない…。「あれ、まだ骨に触らない」などど、何度も包丁をいれているうちに、身はどんどん刻まれ、崩れていきます。一枚目は「切り身を目指していたらしきもの」という代物に。

正面を向いているのが池田校長
 また、それだけ悪戦苦闘するということは、長時間、暖かい手で魚を触り続けているということにもなります。「これはお刺身で食べられる新鮮な魚ではありますが、みなさんの様子を見ていると、お刺身にはされないほうが安全かと思いますね(満面の笑顔)」と校長夫人(池田さんの奥さま)からのアドバイス。サメガレイは、その脂ののりから、煮魚にされることが多いそうですが、校長の一番のおすすめは「唐揚げ」。刺身にはできなくても、美味しい食べ方はたくさんあるようなので一安心。




哲学的「いくらの醤油漬け」に驚く


 そして、次はいくらの醤油漬け。毎年、この時期は秋鮭漁の最盛期なのですが、この夏の北海道の異常気象のため海水温が下がらず、まだ港にはそれほどあがっていないという状況(現在は持ち直してきているようです)。

「今年は○○が不漁」というニュースは、私にとって遠い出来事のひとつだったのですが、浦河にやってきてから、漁業に関わるまちの人にとって、それがどんなに大きなことなのか、ということが少しずつ感じられるようになってきました。そんな中での、いくらの醤油漬け。本当に本当に、貴重なものです

 いくら担当は校長夫人、磯場屋のおかみです。「今日は『池田家のいくらの醤油漬け』を、みなさんにお教えします。これは私がお嫁にきた池田家のお義母さんから教えて頂いたものです。それぞれの家に、それぞれのいくらの醤油漬けがあります。でも、私はこれしか知りませんので、これをみなさんにお教えします」。浦河の各家の冷蔵庫には、ひとつとして同じもののない「いくらの醤油漬け」が入っていて、それぞれが、これが「いくらの醤油漬け」だと思っている、というのは、実はとても豊かなことなんじゃないかと、思います。

今の子どもはいくらになる前の筋子、知っているのかな
 ひとりにつき筋子片腹が配られます。まずは、薄皮から魚卵を外すために、水をはったボウルに入れ、少量の塩を入れます。「池田家では、お湯にはつけません。冷たい塩水につけます」。参加者の中から「へー」という声があがります。魚卵を外すときには、熱いお湯につけるのが一般的な認識のようなのですが、私にとっては、そもそもお湯を使うこと自体が驚きでした。鮮度が落ちてしまいそう。


「皮から卵を外す時、ラケットや網を使う人が多いですが、うちでは使いません。手で外します」。また、そこでも「ヘー」という声が。筋子は全体が完全に皮で覆われているわけではなく、すっと一筋、切れ目があります。そこに指を差し込み、まずはシート状にひらきます。その時点でもう、魚卵がつぶれるのではないかとひやひやです。さらにそれを手で外すって、大丈夫なの?と、不安がふくらみます。


 「開いた筋子を皮を表に二つ折りにたたんで、上と下から手ではさみます。そして、両手を静かにこすりあわせると、ほら。卵が外れてきます」。なんと、卵で卵を外す、という方法なのでした。確かに、ぽろぽろ魚卵が外れてきます。つぶれそうで怖いのですが、意外とそんなことはありません。恐らく、新鮮な筋子を使うからこそ、成立する方法なのでしょう。魚屋を営む池田家ならでは、かも知れません。外れた魚卵をすすぎ、からみついている皮や血管などのゴミを取り除き、いよいよ味付けです。

池田家の漬け汁を調合する校長夫人
 事前に、漬け汁の配合について、いくつかのパターンが載っている表が配られました。基本の材料は醤油、日本酒、みりん、そして人によっては鰹だしを使うようです。

 「今日はこの表は使いません。池田家の漬け汁をお教えします。うちでは、昆布醤油と酒を使います。でも、配合の割合はありません。うちのレシピはこれです」と、漬け汁に人差し指をつけて、ぺろりとなめる校長夫人。

 「私は舌で義母の味を覚えました。もちろん、舌が頼りですから、味は変わります。『ちょっと薄味だったね』『今回は濃い目だね』という会話も、食卓の大事な『一品』になるんじゃなるんじゃないでしょうか」 。

 つくるたびに味が変わること、それを家族で確認しあうこと。それもまた「一品」なのだ、というこの発想。一定しているからこそ「我が家の味」であると思っていた私にとっては、衝撃の一言でした。味は、決まっているけど、決まっていない。私は、この哲学的な「池田家の漬け汁」を、ありがたく自分の漬け汁として、使わせて頂きました。魚卵がちょうどひたるくらいの漬け汁に魚卵を漬けこみ、一晩おいてから汁を捨てることで、「池田家のいくらの醤油漬け」は完成します。 


私の「赤い宝石」
 校長夫人はこんな話もされていました。参加者が魚卵を外している時のことです。筋子の時にはほとんど違いが見えなかったものが、ばらばらになると違いが見えてきます。色の薄いもの、濃いもの、粒の大きいもの、小さいもの。なんとなく、色が薄くて小さいと、よくないような気もしてきます。


 参加者のそんな様子をみて、校長夫人は言います。「人間も、佐藤さんと田中さんで、顔かたちが違ったり、鼻の高さが違ったり、肌の色が違ったりするでしょ。同じように、鮭も一尾ずつ違うのです。お母さんがそれぞれ違うのだから、卵だって、それぞれ違うのはあたりまえ。でも鮭の卵という意味ではみんな同じなんです」。これまで「鮭」「カレイ」とひとくくりにしていた魚たちも、それぞれが固有の生命なのだ、ということを、こんなかたちで認識させられるとは思ってもみませんでした。


 磯場屋のおかみであり、池田家の嫁である、校長夫人が語る言葉は、ひとつひとつがきらりと光っていて、人々の営みの中から生まれてきた生の言葉には、本当にかなわない、と心から思いました。そして、こういう言葉に直に触れられることの幸せを感じました。

試食会まで贅沢な「磯場屋学校」


 そして、最後はお待ちかねの試食会。私たちが、サメガレイやいくらと格闘している間、教頭とスタッフの方たちは、ずっとこの試食会のための準備をされていたのでした。この日のメニューは、タラのソテー2種と鮭の炊き込みご飯(レシピはこちら。とても上品なお味で、おもてなし料理にぴったり)。最初は、その日さばいた魚をその場で料理しないのが、不思議に思えましたが、いろいろな魚を味わい、料理方法に触れてもらうには、とても良い構成、と納得しました(もちろん時間の関係もあるかも知れませんが)。 

料理の説明をする教頭
 美味しい食事を頂きながら(ものすごくお腹がすいていて、写真を撮るのを忘れて食べてしまいました)、参加者の自己紹介。ずっと参加したいと思っていたが、ようやく都合がついて参加することができた、という主婦の方。実家が漁師なので魚をさばく姿はたくさん見てきたけれど、自分はしたことがなかったので、できるようになりたい、と去年から参加している日高振興局の男性職員。今年の春に転勤してきたばかり、せっかく魚の美味しいところに来たので、もっと魚を食べてみたいと参加されたご夫婦。

 ひとりの転勤族の奥様の「こんな教室があるなんて、浦河は普通の田舎ではないですよね」という言葉には、まったくもって同感。魚屋さんを先生に、とびきり新鮮な魚をさばき、美味しく食べる。「磯場屋学校」は、本当に贅沢な学校です。


鮭の心臓はイタリアンやフレンチの食材にもなりそう
 贅沢といえば、途中でお皿がまわってきたこの料理。鮭の心臓を塩胡椒で軽くいためたもの。心臓ですから、一尾にひとつだけ。私たちにも、ひとつだけ。生臭みは全くなく、砂肝を少しやわらかくしたような食感で、あとをひく美味しさ。いつか、思う存分食べてみたいと思いました。


 この鮭の心臓も、教頭がぜひ参加者に食べてもらいたいと、校長に用意してもらったものだそう。校長、校長夫人、そして教頭。みなさんの、魚と参加者への愛情がこもった素敵なプログラムでした。



白ワインと頂きました
 腕をカバーするのはいい道具、と出刃包丁を手にいれることを心に決め、夜には札幌へ。早速、実家でサメガレイをムニエルにしてみました。本当に驚くほど脂がのっているので、母のアドバイスで、パセリをたっぷりとのせて、さっぱりと頂きました。母は釧路の出身ですが、実家では食べた記憶がない、と言います。

 サメガレイ、かつてはそのグロテスクな姿ゆえか、あまり人気がなかったけれど、近年その価値が見直されてきている魚のひとつなのだそうです。この脂の感じは、魚を食べつけない若い人にも、好まれるだろうな、と思いました。これから人気がでそうな魚です。

 金曜日のさんまの煮付けと鮭汁、土曜日のいかと飯寿司、そして今日のサメガレイといくらの醤油づけ。この3日間で、浦河の魚とそれにまつわる文化の一端に触れることができましたが、多分これは、ほんのはじまりに過ぎないのでしょう。季節ごとのさまざまな魚、そして、魚を穫ること、商うこと、料理すること、食べることにまつわる豊かな文化に、この先にどれだけ出会えるのだろうと思うと、これからが本当に楽しみです。

※磯場屋学校への参加の様子は協議会メンバーもレポートしてくださってます。

(宮浦宜子)

2012年10月28日日曜日

今年一番のイカ刺しと飯寿司文化とはじめてのカジカのこっこ

 10月13日(土)。昨日の宴の後は、そのまま旧三之助旅館(現在はマルセイの小山祥子さんのご実家、塚田家と小山夫妻の住居になっている)に泊めて頂き、朝から祥子さんと広間の後片付けをしていたら、協議会メンバーの社会福祉協議会の石黒さんが顔を出してくれました。「後片付けの手伝いが必要かと思って」。その心遣いに感激し、とりあえず一緒に朝ご飯を食べようと、階下の台所へ。


イカ25ハイの迫力
 台所では、塚田家にご親族の来客があるとのことで、母、雅子さんは、昨日の「鮭汁」に引き続き「キンキン(キチジ)の三平汁」の準備を始めています。そこへ、 もと魚の仲買人の父、吉隆さんが発泡スチロールの大きな箱を抱えて現われました。「イカ買ってきたぞ」。漁協は旅館の向かい。まさに先ほど、この台所から 100mのところで水揚げされ、魚の目利きが、大事なお客さんに食べさせたいと買ってきたイカです。これほど間違いのないイカはないでしょう。「イカ刺し食 べるかい?」という、雅子さんの声に、一同、声を揃えて「食べます!」。


箸が透ける透明感
 大根おろしと土佐醤油で頂くイカ刺しは、これまで私が食べたことのある、イカ刺しとは全く異なるものでした。新鮮なので、むしろ甘みは少ないのですが、その分、食感が違います。ものすごいコリコリ感。鮮度がいいイカは耳も刺身にします。耳はさらに強烈な歯ごたえです。耳こそがイカ刺し、という人もいるそう。その食感そのものが美味なのです。浦河でイカが一番美味しいのは7〜8月だそうなのですが、祥子さん曰く「今年食べたなかで一番」というイカ刺しを、滑り込みで頂くことができました。朝から駆けつけてくださった石黒さんにも、思わぬご褒美となりました。いいことをするといいことがありますね。

コリコリのイカの耳
以前から、雅子さんのイカ刺しは絶品と聞いていたものの、正直、刺身の味の違いって、鮮度以外に何があるんだろう、と思っていました。しかし、台所をのぞくと、やはり普通じゃないところが見えてきます。雅子さんのイカ刺しは、なんと1パイに180回も包丁が入ります(私のために数えてくれた)。醤油を含みにくい、新鮮なイカは、薄く切ることで、おろし醤油とのバランスが釣り合うということでしょうか。さらに、切られるのを待っている間に白くなっていく(鮮度が落ちていく)イカは、そもそも刺身にはしないというのです。なんという贅沢なイカ刺し。







美しく分解されたイカの図


その後は、こんな機会はめったにないと、25ハイのイカをさばく、雅子さんに張り付き、写真と映像で記録していきました。詳細は、また別の形でまとめる予定なので、ここでは気付いたことを。ひとつめ、とにかく仕事が早い。私が1つ処理している間に、雅子さんは4つぐらい終えています。もちろん、これまでこの台所で数えきれないイカをさばいてきた経験からくるものなのでしょうが、同時にそれは、素材の鮮度を下げないために必要な条件でもあります。私がもたもたと触っていたイカはすぐに白く、ふにゃふにゃになってしまいます。ふたつめ、仕事がきれい。次の作業がしやすいように、さばいていくパーツが、決まった場所に決まった向きで、置かれていきます。私が、イカをさばいた時のまな板とは似ても似つかない美しさです。

外身と中身をあわせるとさらに美味しくなる不思議

雅子さんと台所にいると、役得もたくさんあります。「宜子さん、ワタで食べてみるかい?」と、新鮮なワタを醤油で溶いて、あのイカ刺しを。 生臭みは一切なく、ただただ濃厚なイカのワタがからまる、コリコリのイカ刺し。思わず恍惚としてしまいます。三平汁のために用意していたキンキンも、「これは新鮮だから生でもいけるよ」と、刺身に。脂がたっぷりのったキンキンは、イカとはまた別の美味しさです。



この樽の山の迫力!
 台所仕事が一段落した後、雅子さんと旅館に隣接する元加工場へ。そこには、かつては米を8升(80合!)炊くほどの量を漬けてきたという飯寿司(いずし)の桶と重りの山が。雅子さんが漬ける飯寿司もまた、絶品との噂。毎年、多くの人が楽しみに待っているそうです。飯寿司を漬けるのは、この桶の大きさとその数から見てわかるように、ものすごい大仕事。しかし、雅子さんも、手伝ってもらっていた人たちも、だんだん高齢化し、今年は最小限しか漬けられない、と。ここ数年、この味を引き継ぎたいと、マルセイの小山直さんの妹さんが、雅子さんに教えてもらいながら飯寿司を漬けてみたそうですが、途中で樽を自宅に移動すると、うまくいかないといいます。おそらく、雅子さんの飯寿司は、雅子さんの仕事であるとともに、この元加工場に住む酵母の仕事ということなのでしょう。


これも飯寿司にまつわる文化

「柿食べるかい?」と言われて、雅子さんが開けた箱には、飯寿司の樽につまった柿が。漬けあがった樽を各地へ送ると、その樽に必ず何か食べ物が詰められて、次の仕込み時期までに、送り返されてくるというのです。ある人は果物を、ある人は山菜を。それが一番美味しい時期に。ここにも、食べ物のやりとりによる、距離も時間も長いコミュニケーションがありました。町長からも、ぜひ注目して欲しいと言われた飯寿司文化。やはりとても奥深く、また広がりもありそうで、ますます興味がわいてきました。








台所の精、雅子さん


私が浦河で注目していきたいことのひとつに「家庭の台所」があります。「食」というと、どうしても専門家による調理や、上手に加工された商品に目が行きがちだけれど、「家庭の台所」には、忘れられたり、消えかけているけれど、価値のある資源が、たくさんあるような気がするのです。特に、これだけ素材が豊かなまちではなおさらです。これからも、可能な限り「家庭の台所」に、お邪魔していきたいと思っています。


そして、夜。昨日の交流会でお会いした浦河町役場の方に「明日『カジカのこっこ(魚卵)』を食べるんだけど、良かったら来ませんか」と声をかけて頂き、二つ返事でお邪魔したのでした。私はてっきり「カジカのこっこ」がお店のメニューででてくるのだとと思っていたのですが、テーブルには1つの瓶が。役場の方がわざわざ自宅で漬けてきたものだったのでした。この時期しか食べられない珍味として、浦河町のPR映像の撮影で大阪から来ているプロデューサーの冨島さん、カメラマンの北村さんに食べてもらおうとつくったものを、せっかくだから、と私にもお裾分けをしてくださったのです。


安価なため「子どもの(ための)いくら」とも言われる
「カジカのこっこ」とは、トウベツカジカの魚卵の醤油漬けのこと。つくり方は、いくらの醤油漬けとほぼ同じですが、味と食味はかなり違います。今回は、ごはんに大量にまぜて頂きました。つまり、このバランスでも全然いけるくらい、脂がさっぱりしているのです。しかも旨味が濃い。そして皮の弾力がすごい。いくらというよりも「とびっこ」に近い感じです。でも、サイズはそれより大きいので、プチプチと弾ける食感の後に、卵液がしみ出してきます。来年もまたきっと食べられますように、とお祈りしました。

 「カジカのこっこ」をきっかけに参加させて頂いたこの宴は、浦河町のPR映像の制作に関係する役場の4人が、 休日も関係なく、冨島さんと北村さんをねぎらうために集まったもの。こういうところに役場のみなさんの本気が見えてきます。私のこれからの活動についても、いろいろと応援してもらえそうな感触で、嬉しくなりました。

 浦河の四季それぞれをロケしてきた、浦河町のPR映像は、今回の秋バージョンのロケで全ての撮影を終え、これから全編を編集、今年度中にはリリース予定とのこと。すでに編集済の冬バージョンを見せて頂きましたが、一人の移住者として、これからやってくる浦河の冬が待ち遠しく思えるような映像でした。また、同じように浦河について伝える役割の人間として、私にできること、私がすべきこと、が少しクリアになった気がしました。全編を観たわけではありませんが、このPR映像は、今後、浦河から何かを伝えていこうとする人の助けになってくれるのではないか、と思います。私もリリースを楽しみにしています。 
(宮浦宜子)

2012年10月26日金曜日

宴の準備と人々をつなぐ「食」の可能性

 10月12日(金)。朝から、協議会が主催する交流会(兼、私の歓迎会)の準備を。会場は、旧三之助旅館の大広間。三之助旅館は、かつて浦河を訪れるお客さんたちに、地元で採れる新鮮な海の幸を美味しく食べてもらうために、魚の仲買人だったマルセイの祥子さんのお父さんがつくった旅館。なんと浦河港の真ん前にあります。当時は地元の人たちの祝宴などにも使われ、多くの人にとって思い出深い場所とのこと。
厨房に立つ、ベテラン調理人たち
 今は住宅として使っているとはいえ、台所は最大100人の宿泊客の胃袋を満たしたという本格的な厨房。台所好きとしては、かなり盛り上がります。交流会は、参加費500円、一品持ち寄り、飲み物持参という形式でしたが、主催者側でも料理を用意。旅館の元女将の雅子さん(祥子さんのお母さん)を筆頭に、「おかんのおかず弁当」のメインシェフ、おかん(藤本さん)、三之助旅館から生まれ、今もその志を残す「味処三之助」の若女将をやっていたこともある祥子さん、という強力な布陣のもと、私は「洗い場」担当として、ひたすら鍋や食器を洗っておりました。

すすぐ水に注目
 雅子さんの担当は「さんまの煮付け」と「鮭汁」。「さんまの煮付け」は、先日の「おかんのおかず弁当」にも登場し、私もお裾分けを頂きましたが、おそらく人生で一番美味しい「さんまの煮付け」でした。その秘密を探るべく、私は洗い場と調理台を往復しながら、調理を記録。美味しい「さんまの煮付け」の秘密のひとつは、おそらくこの徹底した「そうじ(下準備)」にあります。すすぐ水が全く濁らないほど、丁寧に内臓などを取り除くのです。美味しいものをつくるには、それだけの時間がかかるということなのですね。












足台に乗って巨大鍋の様子を見る雅子さん
「鮭汁」は、同じ鮭を使ったものでも「石狩鍋」とは違って、調理場で仕上げて提供するもの。 使った鮭は、日高が誇る天然秋鮭「銀聖」を浦河で水揚げする網元「三協水産」の跡取り、小西さんからの「一品持ち寄り」。鮭一尾を持ち寄るというのも豪勢です。これを、巨大鍋で調理。浦河ではいろいろスケールが違います。















卵を40個むいたのは人生初
私も少しは調理のお手伝いを。協議会メンバーで養鶏を手がける「キッチンサイドファーム」の櫻井さんの「一品持ち寄り」は、平飼い鶏の卵40個。これは茹でて味噌漬けに。きれいにむけていないのは、私の不器用さではなく、あまりに新鮮なせいですので、あしからず。

夕方からは、お客様を迎えるため、普段は洗濯物干場と化している大広間を整えます。私はここが旅館だった頃を残念ながら知りません。でも、お誘いした方たちに交流会の会場が旧三之助旅館の大広間であることをお伝えするたび、みなさんの顔がぱっと明るくなるのを見てきたので、浦河の人たちにとって大切な場所なんだと、掃除にも気合いが入ります。








交流会では七味の瓶をマイクにリレー方式で自己紹介
朝からの怒濤のような準備を終え、6時半すぎからお客様をお出迎え。
みなさんが、手に手に自分の一品を持って広間に入ってくる様子は、とても素敵です。持ち寄り品を置くテーブルは、あふれんばかりの浦河の食の饗宴(バタバタしていて写真を撮り逃してしまったけれど)。
 今回、会場の広さから、泣く泣く絞り込んで集まって頂いた参加者は、漁業家、野菜農家、酪農家、養鶏家、飲食店主、高校養護教諭、中学教諭、図書館長、社会福祉協議会職員、映画館主、浦河への移住者(美容室経営者とその家族、アメリカ人英会話講師とその奥さん)、そして役場の食や観光、移住に関わる職員などなど。さらには、浦河出身の映画監督、田中光敏さん監修のもと役場が制作中の浦河町PR映像の撮影に訪れていたクルーも飛び入りで。

 この交流会では、初めて顔を合わせたという方も多くいらっしゃって、これだけ多様な領域の人々が関わりうる「食」というものの底力をあらためて実感しました。
その一方で、やはりこの光景は、どのまちでも見られるわけではないのだろうな、ということも同時に思いました。協議会の代表である直さんと祥子さんが、これまで少しずつ築いてきた関係と、まちの人々のオープンさ、そしてここにある「豊かな食」あってのものだと。
私もここでまた、いろいろな方と出会い、次につなげていけそうな話をたくさんすることができました。半年で実現しきれるか?というくらい。これからが本当に楽しみです。
(宮浦宜子)

2012年10月22日月曜日

乗馬と食の関係と頂きものコミュニケーション

10月10日(水)。午後から、乗馬のために浦河町乗馬公園へ。ここは「町民乗馬文化の醸成」を目指して設立された町営施設であり、体験移住者全員に1回の無料体験がプレゼントされます。私も、同時期に滞在しているみなさんとともに、参加させて頂きました。
 
先日の浦河ツアーでご一緒したご夫婦とも再会
浦河町への体験移住者は年配の方が多いのですが、馬に乗るのは人生初!という方もいらっしゃいました。私は1年半ほど前に、友人の運営する島根の牧場で乗ったことがあって、とても楽しい時間だったので、また乗りに行きたいなあと思っていたのですが、ここ浦河で実現してしまいました。






美味しいものを食べてるのと多分同じ笑顔


久しぶりの馬の背中はやっぱりとても楽しくて、本当に馬とわかりあえるようになったらどんなに素敵だろうと思い、浦河にいる半年間の間、積極的に馬に乗ることに決めました。最後は山を駆けることが目標。
都会に住んで、乗馬を楽しみたいと思っても、金銭的になかなかハードルが高いと思いますが、ここ浦河では「テニスサークルや、バレーボールサークルに参加するような気持ちで、スポーツとして乗馬を楽しんでほしい」と、費用はとても低く設定されています。一人で乗れるようになれば、1回なんと500円(15分)。私も、浦河の美味しいもので増えていく体重を、乗馬で落としていきたいと思います。


バランスを考えながら食べているらしい
 乗馬と「食」のつながりは、私のダイエットだけではありません。浦河には4000頭の馬がおり、1万4000千人の町民と同様に、その馬たちも、日々「食」べているんですよね。前にも少し触れましたが、この馬の「食」のための広大な牧草地の存在と、浦河の食の関係については、これから探っていきたいことのひとつです。そうそう、私は今回の乗馬ではじめて正真正銘の「道草」を体験しました。そう、乗馬中、馬は、隙あらば「道」の「草」を食べるんです。とても親近感を感じます。



これらをひとりで背負ってきたおばあさん
 乗馬の後、次に住みたいと思っている家が、ちょうど空いているとのことで、下見に行きました。隣に住む大家さんのおばあさんといろいろ話していたら、午前中、きのこ採りに行ってきた、とのこと。ここ数年、きのこ採りに憧れていた私は、すぐさま「場所の秘密は守るので、連れていって欲しい」とお願いし(きのこ採りはある種の戦いなのです)、連れていってもらうことになりました。そして、帰りには「とりあえず、今日はこれを持っていきなさい」と、袋一杯の落葉きのこ(ハナイグチ)と山栗を頂きました。






本日の頂きもの
夕方、遅めの朝食だけで馬に乗り、あまりにお腹がすいたので、パン屋さん「ぱんぱかぱん」へ。あれも食べたい、これも食べたい、せっかくだからスープも、と選んでいたら、軽食のつもりが、ほとんど夕食かという量に。オーナーの以西さんが、ちょっと味見とさらに追加してくださったラタトゥイユが、とんでもなく美味しかったので、レシピを聞いてみたところ、農家の藤田さんのアイコトマトと水と塩で、浦河産の野菜を煮こんだだけ、と。「そういえば、藤田さんのトマト、生で食べたことないかも知れない」と言うと、「ぜひ食べてほしいから」と、ご自分用に買っていたものを、分けてくださいました。事務所に帰りついた時には、両手いっぱいの頂きもの。

 誰かに会えば、何かを頂く、という浦河の生活は、私にとっては本当に驚きで、そしてとても嬉しいできことでもあります。浦河の食についてリサーチしている、という私の立場を差し引いても、ここでの大切なコミュニケーションの一部として、食べ物のやりとりがあるような気がします。私の場合は、今のところ頂くばかりなのですが。
(宮浦宜子)

2012年10月20日土曜日

はじめてのカフェ「アッシュ」とうれしい話

しっとりと話し込むのによさそうなソファ席
 10月9日(火)。いろいろな人から「浦河にはとってもいいカフェがあってね…」と紹介されていたカフェ「アッシュ」に、ようやく足を運ぶことができました。アッシュは店主の馬道さんが、POPライターの仕事と二足のわらじで、週4日オープンしています。平屋の民家をまるごと一軒使い、まさに馬道さんのお家に遊びにいくような雰囲気のカフェです。実際に訪れる前は、アッシュのようなカフェは、行きなれた人にとっては、とても落ち着けるだろうけど、はじめての人は、入るのに勇気がいりそうだな、と思っていたけれど、馬道さんの笑顔とオープンさに触れて、それはまったくの杞憂だったなあ、と思いました。

店内では野菜なども売られています

食事は、光がさんさんと差し込む、台所前のテーブルで「えりも短角牛のボロネーズ(パスタ)」を。気取りはないけれど、牛のうまみがしっかり麺に絡んでいて、きっとまた食べたくなるだろうな、という味でした。












訪問先で出会ったおとぎ話のような庭




この日の夕方は、マルセイの祥子さんと、等身大の復興支援活動として、福島県郡山市の柏屋さんから希望者を募って毎月購入しているお饅頭の配達についていきました。今後、何かつながりが生まれそうな方や、祥子さんのお友達などに、はじめまして、のご挨拶をしていきます。先日の新聞記事を読んでくださって、すでに私のことを知っておられた方も数人いて、その中のお一人から、こんなことを伝えられました。
 「あの記事を読んでから、自分の浦河に対する気持ちが大きく変わった。あなたのような人が浦河を気に入って、わざわざやってきてくれたことにびっくりした。なぜなら、私はずっと、浦河には何もないと思っていたし、ここが好きになれなくて、まちを離れたいと思ったこともあるくらいだから。でも、もしかしたら、ここにもいいところがあるかも知れない、と思いはじめた。そして、考えてみれば、自分はずっとこのまちで暮らし、お世話になってきたのだから、自分も浦河に何か恩返しをしなくては、という気持ちが起こってきた」と。

 ひとりの人間が浦河にやってきた、という事実を、こんな風に受け止め、自分ごとに変えていった人がいらっしゃることに、驚くとともに、あらためて、まずはまちの人にこそ、浦河のいいところを伝えていきたいな、と思いました。
(宮浦宜子)